名盤100選 79 アリス・クーパー『グレイテスト・ヒッツ』(1974)

アリス・クーパー・グレイテスト・ヒッツ<ヨウガクベスト1300 SHM-CD>
先日、知人の店で飲んでいて、偶然、昔の知り合いであるN氏に二十数年ぶりに会った。N氏はわたしより2つ年上で、バイト先の先輩だった。

昼は喫茶店、夜はパブという店で、彼はフロアで、わたしは厨房で働いた。そのときわたしはそろそろ18歳になろうかという年齢で、将来はミュージシャンか小説家にでもなるつもりでいたので、そんなパブの厨房の仕事に本気の興味や真剣な気持ちはかけらもなかった。

しかし、どんな仕事であれ真剣に取り組めないような人間が、ミュージシャンや小説家になんかなれるはずがないということを理解するまでにはまだ15年以上の年月が必要だったのだ。

久しぶりに会ったN氏は「暗かったよなぁ、おまえは」と言った。昔からそうだけど、言いにくいことをわりと平気で言う人だ。そしてこう続けた「自分の悪いところを全部世の中のせいにしてたもんなあ」。
まったくその通り。なかなかこうストレートに言ってくれる人もめずらしいだろう。でも本当に、まったくその通りだと思う。

若いころなんて本当になにも知らないし、なにもできないし、なにひとつうまくいかないことばかりだ。
わたしは人より少し早めに社会に出て、そしてこの社会の中では、自分が小学2年生と変わらないぐらい役に立たない、ほとんど価値のない存在であることをたぶん無意識に実感していたのだろうと思う。

わたしはそんな「社会」あるいは「世の中」というものが気にくわなかったのだ。わたしに対して厳しく当たる「社会」あるいは「世の中」というやつを無視してやることにしたのだった。
自意識過剰な自己チューの若者は、「現実に目を向けない」という必殺技を身につけている。
この技さえあれば、どこまででも間違った方向に進むことができるのである。

「悪いのは世の中であり、わたしたちではない。わたしたちが不幸なのは世の中のせいである」
都合の良いことに、当時はこのようなありがたいお言葉がそこら中にあふれてもいたのだ。
当時聴いていた反骨心旺盛なフォークやロック、そして戦争世代の保守的な考えを時代遅れと見做し、新しい世代である自分たちの感受性をアピールする文学作品なども、わたしをその気にさせるのに充分だった。

反骨心はもてはやされ、革新という言葉は魔法のように魅力的であり、反体制という看板は真の正義と同義語のようでもあった。

「悪いのは世の中であり、わたしたちではない。わたしたちが不幸なのは世の中のせいである」
今から思えば、こんな言葉は新興宗教やあるいは左翼政党の勧誘の文句となんら変わらない。
わたしは現実をできるだけ見たくないために読書に耽り、そこかしこでこのような言葉を見つけては世の中に対する不安や怯えを一瞬だけ忘れ、ホッとしていたのだろう。

まったく、読書なんて、クソの役にも立ちはしない。
わたしは若いころ、みんなのように真面目に仕事をしていなかったから、みんなよりもたくさん本を読んだ。映画館の映写室でフィルムを回しながら、海外文学や現代思想のクソ難解な本を読んでいた。

クソ難解な本を読んだからといって賢くなれるわけではない。今になって実感として思うが、読書なんて所詮、暇つぶしの趣味に過ぎないのだ。読書ばっかりしている人なんて、ゲームばっかりしている人となんら変わりはしない。どちらもただの、ヲタクである。

アリス・クーパーはハード・ロックの先人のひとりでもあり、またグラムロックの走りでもある。
たぶんロック史上初めて、彼は奇抜なメイクをして、ステージで人形を使って絞首刑やギロチン刑の真似事をして良識ある人々の神経を逆撫でした、マリリン・マンソンやスリップノットらの大先輩である。

しかしアリス・クーパーには、もっと軽いポップな要素があり、おどろおどろしさだけでない、ユーモアがある。ホラー映画にたとえて言えば、「エクソシスト」や「13日の金曜日」のようなただただシリアスに怖い作品ではなく、「スクリーム」のような、学園コメディの空気感もあるような、ポップなホラー映画みたいだ。
デヴィッド・ボウイはSFという設定のエンタテインメントだったが、アリス・クーパーはホラーという設定のエンタテインメントだ。両者はとても良く似ているとわたしは思う。

「エイティーン」や「スクールズ・アウト」「俺の回転花火」、このような音楽でフラストレーションを発散して青春を送るとしたら、ほんとうに健全で、楽しい青春が送れることだろう。
このアルバムは74年に発売された、ベストアルバムである。
したがってキャリアのほんの初期の曲だけをまとめたベストだが、わたしはこれが好きである。

しかし、そのオリジナリティや影響力にもかかわらず、アリス・クーパーは過小評価されすぎてやしないかと、ときどき思うのであある。
エアロスミスもキッスもメタリカも良いけど、みんな、アリス・クーパーを忘れてやしないか? とわたしはときどき言いたくなるのである。

「エイティーン」という曲は、18歳の少年の、ちょうど大人でもなく子供でもないという時期の違和感や苦悩について歌った歌だ。
N氏らと一緒に働いていたパブを、オーナーに一方的に不満を言ってやめて(いやオーナーのほうこそわたしに対して山のような不満があったに違いないのだが)、さてなにをしたらいいものかと部屋にこもって悩み、部屋にこもって下手糞なギターを弾いたり、もちろん彼女なんていないし、ときどき母親には叱られるし、仕方なく仕事を探し、やがて映画館に就職が決まるまでが、わたしの「エイティーン」だった。もちろん、面白いエピソードなんてひとつもない。
あの頃のわたしは、わたしより楽しそうな毎日を送っている、すべての隣人を憎んでいた。

でも、今は違う。
人は年月の経過によって細胞が死滅し、新たな細胞と入れ替わる。
20年前のわたしなんて、別人みたいなものだ。
そう思いたい。

人は変われば変わるものである。
本の活字の中に答えを探し、現実を全否定することで現実逃避し、むりやり自己正当化していた若者は、いまやどのような本であってもそこにはつくりものの世界とつくりものの物語しかないことを理解し、現実の世界を全肯定するただのおっさんとなった。

自分の仕事に集中し、愛すべき同僚たちがいる会社でお互いのために働き、自分が住む地域のことを知り始め、生まれたこの国の言語や風土の素晴らしさが誇りに思え、今のこの時代の良いところも悪いところも理解できるようになり、そして今に連なる歴史が綿々と続いていたことを重く受け止めるようになった。
わたしは頭がイマイチ良くないので、ちょっと人より気づくのが遅かったようだが、人生はまったく悪いものではないのだ。

現在エイティーン中の若者にはまだわからないかもしれない。
でもまだわからないでいるのも、それはそれでいい。人生の醍醐味はいろんなことがわからなかったりわかったりすることだ。

わからない謎は、人生が進むにつれ、次第に解けてくる。
その謎が解けるたびに、小説や映画などとはくらべものにならないほどの、静かだけれど深い、魂を震わすような感動の嵐が、これでもかというほど、何度も何度も君を襲うのである。

自分の「エイティーン」の頃を思い出しながら、いつになく熱くなってつい長々とシリアスかつ本質的なことを書いてしまったけれど、なにもアリス・クーパーの回にこれを書かなくてもよかったよなあ、という気が今はしてきている。

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コメント

  1. ゴロー より:

    たしかに。
    読み返してみたら、たしかになかなかアリス・クーパーが出てこなくてイライラしたわ。

    やっと出てきたと思ったら、なんだかたいしたこと書いてないしすぐ終わっちゃうし。
    詐欺か、これは。

    まあ、お金取ってるわけじゃないので我慢してください(笑)

  2. headfuck より:

    Unknown
    お! アリス・クーパーだ!!
    と 読み始めたけど……

    長ぇよ!!!(笑)

    ’80代の HRバンドは 結構カバーしてたような気がするなぁ~。
    わりと ヘヴィ・ポップ(こんな言葉あるのか!?)な 今のバンドにも影響与えてるのでは……♪