名盤100選 11 マドンナ 『ウルトラ・マドンナ~グレイテスト・ヒッツ』 1990

今年で50歳になろうとしている。
いったいなんなのだろう、この人は。

なにしろ彼女の最も売れたシングルは2006年の「ハング・アップ」で870万枚と記録されている。これは「ライク・ア・ヴァージン」の倍以上の数字であり、ふつうのアーティストでは考えられないことだが、彼女は年を重ねても全盛期を過ぎるどころか、さらに売れていってるのだ。
このようなアーティストは過去に存在しなかったし、この先も二度と現れないだろう。

それに、ふつうに考えたらもっと嫌われていいはずではないか。
美人ではあるが安っぽいし、挑発的で下品、スキャンダラスなプライベートなど。
いやたしかに昔は、80年代にはもっと賛否両論があった。下品だとか、教育上よろしくないとか、R-15的な存在でもあった。
でも現在は賛否の「否」のほうはほとんど目立たない気がする。性別も関係なく、支持率90%を超えているのではないだろうか。

それは彼女の、自分を「商品」として最高の状態で維持するためのその努力の凄まじさ、プロフェッショナルな志の高さに誰もがリスペクトせざるを得ないからだし、そしてデビュー当時から今まで一貫している彼女のそのあけすけな「誠実さ」と、「史上最も成功した女性アーティスト」となっても変わらぬ、その庶民性だと思う。
庶民性というか、労働者階級のイメージ。しかもかなり下のほうの。

それはわたしの勝手なイメージだから異論もあるかもしれない。
彼女は50歳の女性としてありえないほど美しいし、現実に、叶姉妹など足元にも及ばないスーパーセレブである。
でも彼女のそのちょっと安っぽい容貌や下品なイメージは、高卒でアメリカの田舎町のダイナーでオーナーのセクハラに悩まされながらウエイトレスをやってるような、男運が悪くがさつで暴力的なヒモのような男に入れあげ、シングルマザーになったり、一生に一度ぐらい外国に旅行してみたいと夢見ながら、貧しくたいした喜びもない一生を送るありがちな低所得者層のイメージがどうしても抜けない。
嫌われ松子系である。わたしはそこが好きなのだ。

「ミュージック」や「ハング・アップ」の様々なステージでのパフォーマンスをわたしはYOU TUBEで何度も見た。
わたしにとって彼女のパフォーマンスは、冗談ではなく、見ていると感動のあまり涙がこみあげてくるほどだ。
だからCDで音だけ聴いているとマドンナの魅力は半減する。それはしょうがない。それはマドンナの楽しみ方としては正しくないということだ。

また、彼女の新譜は毎回新鮮なアイデアや斬新な音、プロデュース・ワークに驚かされる。
こういう楽しみはメンバーの固定したロック・バンドからはなかなか得られない。

クリスティーナ・アギレラの2006年作『バック・トゥ・ベーシック』を聴いたときも思ったが、ロックバンドというのはふつう自分たちで曲を書いているので、職人的なプロが書いた曲を歌うだけのポップスシンガーよりも「アーティスト」という言葉がふさわしい感じがする。
しかし出来上がった作品(アルバム)だけをみれば、たとえばマドンナやクリスティーナ・アギレラの大勢のスタッフが関わっている一大プロジェクトのような作品のほうがコンセプトがはっきりしていたり、プロフェッショナルな職人技と実験性が共存していたりと、作品としてはよりアーティスティックな結果になっていたりする。
マドンナの『アメリカン・ライフ』や『ミュージック』も初めて聴いたときは「えっ」と一瞬困惑するほど変わった音楽に聴こえたが、それが世界中で売れるのだからたいしたものである。

あと10年でマドンナも60歳。
10年と言ってもアルバムにしたらあと3枚か4枚ぐらいのことだ。そのときマドンナはいったいどんな音楽を発表するのだろう。
もうさすがに肉体のパフォーマンスは無理だ。ダンスミュージックではないだろう。
でも「マドンナ」というプロジェクト・チームはNASAに匹敵するぐらいの頭脳と腕を持ったプロ集団にちがいない。
「60歳のマドンナにふさわしい音楽」などあたりまえだがこれまで作られたことはないわけで、よし、それ作ろう、となったらおそらくそれは誰もやったことのないような、とんでもないものを作り出すに違いないとわたしは夢想する。
ええっ、こんなんアリか?とわたしをたじろがせて、しっかり地球上のあらゆる場所で売れまくるといういつものパターンで。