死神を呼び寄せた血まみれの傑作【ストーンズの60年を聴き倒す】#32

Let It Bleed -.. -Remast- [12 inch Analog]

『レット・イット・ブリード』 (1969)

“Let It Bleed” (1969)
The Rolling Stones

捨て曲一切なし、攻撃的な名曲と刺激的な名曲と激シブの名曲だけで構成された恐るべき傑作だ。ストーンズの最高傑作として評価する人も多く、ロック史上に残る名盤としても高く評価されている。プロデューサーは前作に引き続き、ジミー・ミラーだ。

前作『べガーズ・バンケット』で泥っどろのルーツ・ミュージックへと立ち返ったストーンズがその指向をさらにディープに突き詰め掘り下げながらも、当時いた凡百のブルース・ロック・バンドのような鈍重な懐古趣味ではなく、攻撃的な最新のロックに昇華し、もう一段階レベルアップしたオリジナリティ溢れる内容だ。

SIDE A

  1. ギミー・シェルター – Gimme Shelter
  2. むなしき愛 – Love in Vain (Robert Johnson)
  3. カントリー・ホンク – Country Honk
  4. リヴ・ウィズ・ミー – Live With Me
  5. レット・イット・ブリード

SIDE B

  1. ミッドナイト・ランブラー – Midnight Rambler
  2. ユー・ガット・ザ・シルヴァー – You Got the Silver
  3. モンキー・マン – Monkey Man
  4. 無情の世界 – You Can’t Always Get What You Want

初期のストーンズはブルース・R&Bと黒人音楽一辺倒だったが、この時代になるとカントリーの要素が目立ってくるようになる。それには1968年の夏にキースが、当時ザ・バーズに在籍していたグラム・パーソンズに出会った影響が大きいと言われている。音楽とドラッグで繋がった義兄弟のような彼の影響についてはまたあらためて別の記事で書くつもりだが、ここではキースのこの言葉だけを引用しておこう。

1968年の夏にグラム・パーソンズと出会ったとき、俺はまだ発掘中だった音楽の鉱脈を掘り当てた。グラムとの出会いが自分の弾くもの、書くものの領域を広げてくれたんだ。(『ライフ』キース・リチャーズ著 棚橋志行訳)

このアルバムに収められた「カントリー・ホンク」などもきっとその影響の産物だったのだろう。

アルバムは前作の冒頭を飾った「悪魔を憐れむ歌」に勝るとも劣らない、不穏で禍々しい大名曲「ギミー・シェルター」で幕を開ける。
暴力や破壊、殺戮の地獄絵図にこれほどしっくりくる曲もなかなかないだろう。

「むなしき愛」はミシシッピのブルースマン、ロバート・ジョンソンが1936年から37年にかけて録音した伝説の29曲のうちの1曲だ。繊細に、美しく、格調高くアレンジした、入魂のカバーだ。ライ・クーダーがマンドリンで参加している。
ストーンズがこのカバーを世に出したことは、ロバジョンのためにでっかい墓を建てたりするよりもよほど大きな意義があったと思う。

アルバムのタイトル曲である「レット・イット・ブリード」は、ビートルズの『レット・イット・ビー』のパロディのように思われがちだが(実際、わたしも昔はそう思い込んでいた)、実際はこっちのほうが半年早く発売されている。きっとあっちが真似したのだ。イアン・スチュワートのピアノがいい。

「ミッドナイト・ランブラー」はシンプルなシャッフルのブルース・ロックで始まり、リズムやテンポを変えながら、ライブでは10分を超えて演奏される大曲。
キースはこの曲を「コード・シークエンスは違うが、音は純粋なシカゴ・ブルース。ストーンズでも指折りの独創的なブルースだ」と語っている。
歌詞は1960年代前半に起きた米ボストンの連続殺人事件(19歳から85歳までの女性13人が性的暴行のうえ殺害された)を題材にしたという。「真夜中の徘徊者に気をつけろ」、と注意喚起したり怖がらせたりしているちょっとしたホラー・テイストの歌詞なのだ。

「ユー・ガット・ザ・シルヴァー」はキースが初めてリード・ヴォーカルをとった曲だ。
レコーディング・エンジニアのグリン・ジョンズはその自伝で。この曲はもともとミックの歌で録音されたが、誤ってヴォーカル部分を消してしまった、しかしそのときミックはオーストラリアで映画を撮影中だったため、替わりにキースに歌い直してもらった、と書いている。
しかしそんなことをあのミックが許すものかな、と思うがどうなんだろう。
キースの自伝には「おれがソロで歌ったのは、仕事を分散して負担を軽減してやる必要があったからにすぎない」と書かれているだけだ。まあどっちにしろ、結果的にこんな素晴らしいトラックが生まれたのだから良かったのだけれど。

「モンキー・マン」もまたアブない曲だ。

おれは注射痕だらけのクスリ好きの猿、友達全部ジャンキーだ
おれは割れた玉子を詰めた麻袋、ベッドはいつもぐっちゃぐちゃ
おれはモンキー・マン、おまえはモンキー・ウーマン、嬉しいな

不気味なほど美しい響きのピアノのイントロから始まり、ハードなギターとサディスティックなグルーヴが責め立てる。まるで、精神病棟の閉じ込められた寄り眼のジャンキーが猿のように飛び跳ねる、ユーモラスなのか怖すぎるのかよくわからない光景を眺めているような気分になる曲だ。

そして最後はこの連載の#30で取り上げた、「ホンキー・トンク・ウィメン」のシングルB面に収録されていた「無情の世界」で盛大に幕を閉じる。

このアルバムではブライアンは2曲しか参加していない。B-1のパーカッションとB-2のオートハープという弦楽器だけだ。

そしてミック・テイラーがA-3、A-4の2曲に参加している。
バンドが危ういバランスを保ちながらなんとか乗り切った、過渡期のアルバムということになるだろう。

ブライアンはこのアルバムの制作中の1969年6月にストーンズを脱退し、そのわずか1ヶ月後に自宅のプールで溺死しているのを発見された。

また、このアルバムがリリースされた1969年12月5日の翌日に、あのオルタモントの悲劇が起こっている。

カリフォルニア州オルタモント・スピードウェイで20万人とも言われる観客を集めた無料コンサートで、「アンダー・マイ・サム」の演奏中に、会場警備を担当したバイカー集団、ヘルズ・エンジェルスのメンバーの手により、黒人青年が刺殺された。

なぜそんな反社みたいな連中に警備なんて任せたのか理解に苦しむが、会場が決まったのがライヴの直前だったり、とにかく杜撰な計画とバタバタの中で決まったらしい。他にも暗闇に寝転んでいて車に轢かれた観客が2人、ラリっていて警官に追われ用水路に落ちた観客など、全部で4人が死亡する大惨事となった。

全世界で映画も大ヒットした「愛と平和と音楽のウッドストック」の成功からわずか4ヶ月後の「混沌と殺人と音楽のオルタモント」だった。

まるでロックというコインの表と裏をいっぺんに見せられたような、熱く激しかった1960年代の幕切れに生まれたのがこの”血まみれの”アルバムだった。

(Goro)

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