名盤100選 89 バディ・ホリー『ザ・ヴェリー・ベスト・オブ』

The Very Best of Buddy Holly

1週間ほど、新しい店をオープンさせるために尼崎にいたので、家でのんびり過ごすのも久しぶりだ。
5泊で4回、いろんなメンバーで飲み会をした。楽しかった。
仕事もうまくいった。新しいアイデアもすべて実現して、良い店が出来た。わたしはなんて幸せな人生を送っているのだろう、と思った。

今年の夏は毎日、車の中でも家でも、50年代のポップスを聴いている。
中でも特に気に入っているのがこのバディ・ホリーの2枚組ベストである。
50年代のポップスなんて、じつに能天気な音楽である。
仕事や生活が思うようにいかなかったりと、日々の生活に苦労している人々には聴いてられないだろうが、わたしのようにとりあえず今は問題なし、ああ幸せ、と人生を謳歌している人間にはぴったりなのである。

しかしそんな50年代の音楽にも哀しみは刻まれている。
こんなに能天気でハッピーだった時代はもうとっくに終わってしまったのだ、という哀しみである。
どのような素晴らしい時代も、いつかは過ぎ去る。
素晴らしい人生の時期も、いつかは終わる。
まるで人生の一瞬の輝きを歌っている、刹那的かつ虚無的な音楽にも聴こえるのだ。

バディ・ホリーは1955年デビューの、ロック・オリジネイターのひとりだ。
彼はクリケッツというバンドを率いて、4人で演奏した。
ヴォーカル、ギター、ベース、ドラムス、というこの構成が、後にビートルズなどに引き継がれて、現在もロックバンドの基本の形となっている。
ちなみに、ビートルズ(カブトムシ)という名前の由来も、クリケッツ(コオロギ)と同じ虫の名前にしたかったからだと言う。

しかし、ロック史におけるバディ・ホリーの最大の功績は、メガネをかけて歌ったことにあると、わたしは思う。
カッコよくて、肉体的で、カリスマ的な、そんな男だけがロックスターになれるのではなくて、ド近眼の地味な、学校でも目立たないやつや、いじめられっこや、コンプレックスを抱えていたり、女の子にモテなくて悶々としていたり、そんなヘタレでもロックスターになれることを証明して見せた。
世の中のすべてから門戸を閉ざされているヘタレたちにとっては、バディ・ホリーによって、ロックンロールだけが自分たちに門戸を開いて、自分のヘタレな人生を応援してくれていると感じたに違いない、と想像できる。

アメリカのロックバンド、ウィーザーの1994年の名曲「バディ・ホリー」は、いつもいじめられているアジア人の女の子を守ってあげたいけど自分にはその力が無い、でも君を守りたいんだ、僕と一緒にいよう、と歌い、そんな自分を「バディ・ホリーみたいだ」と歌っている。
腕力はないけど、ヘタレだけど、でも僕は本物の男だ、ということを、ヘタレの永遠のヒーロー、バディ・ホリーに重ねているのだろう。

実を言うとわたしは若いころはあまりバディ・ホリーは好きではなかった。
あのしゃっくりみたいな歌い方も好きではなかったし、なにしろ、曲がなんだかカラッポで中身が無いように思えたのである。
有名な「ペギー・スー」なんて、ペギペギスースーしか言ってないように聴こえたものだ。
なのに今聴くと、その情報量の少なさがなんだか侘び寂びみたいな魅力に思えてくるから不思議なものだ。

また、この2枚組ベストは、リマスターのせいか、わたしが過去に聴いたものにくらべると音が見違えるように良くなっていて、このシンプルなサウンドの奥深さ、味わい深さなどが際立って聴こえる。この音が気に入って、聴きはじめたようなものだ。
下に挙げたような代表曲も素晴らしいが、「ブルー・スエード・シューズ」や「ボ・ディドリー」「ブラウンアイド・ハンサムマン」のようなカバーもすごく良い。

1959年2月に、「ラ・バンバ」で有名なリッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパー、そしてバディ・ホリーという3人の若きロックミュージシャンを乗せたチャーター機がアイオワ州のトウモロコシ畑に墜落した。
ビッグ・ボッパーは28歳、バディ・ホリーは22歳、リッチー・ヴァレンスは17歳の若さでこの世を去った。
この日のことをドン・マクリーンは「アメリカン・パイ」という名曲の中で、「音楽が死んだ日」と歌った。