ザ・フォーク・クルセダーズ/悲しくてやりきれない(1968)

ザ・フォーク・クルセダーズ ベスト EJS-6166-JP

【ニッポンの名曲】#7
(作詞:サトウハチロー 作曲:加藤和彦)

加藤和彦は大学生在籍中の1965年に、ザ・フォーク・クルセダーズを結成した。
「フォーク」は民謡のことで、「クルセダーズ」は十字軍の意味だ。
世界各地の民謡を紹介するという意味で付けられた。


当初は5人のメンバーで結成したが、2人が脱退し、加藤和彦、はしだのりひこ、北山修が残る。

学生の彼らはアマチュアとして3人で2年間活動し、卒業と同時に解散することになるが、その記念として23万円でレコードを自主製作した。

それが『ハレンチ』である。

ハレンチ

日本におけるフォーク~ロックの歴史は、この学生の自主製作アルバムが始まりだったと言っても過言ではない。

日本のフォーク&ロックの源流を辿れば『ハレンチ』に行き着くなんて、なんて素敵な物語の始まり方だろうと思う。


『ハレンチ』はラジオDJの目に留まり、「帰ってきたヨッパライ」「イムジン河」などがラジオで流されるようになり、レコード会社にプロとしてデビューを誘われるが、加藤和彦は難色を示す。
結局、他のメンバーに説得もされて、ザ・フォーク・クルセダーズは1年間のみの活動という条件で、プロとしてデビューすることになる。

その1年間のあいだに、「帰ってきたヨッパライ」はニッポンの歌謡史における初めてのミリオンセラー・シングルとなり、「悲しくてやりきれない」「青年は荒野をめざす」など、次々とシングル・ヒットを出した。
そして予定通り、デビューから1年後に、解散してしまう。


68年にザ・フォーク・クルセダースが発表したシングル「悲しくてやりきれない」は加藤和彦の作品の中でも、わたしがとくに愛する名曲だ。

胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに 告げようか
(悲しくてやりきれない/作詞:サトウハチロー 作曲:加藤和彦)

彼らの2枚目のシングル「イムジン河」が発売後にレコード会社の「政治的配慮」によって回収され、販売中止となったことで、急遽シングル用の新曲を書く必要に迫られ、加藤和彦が「イムジン河」のメロディを逆にたどっているうちにこのメロディを思いついたという。

ちなみに「イムジン河」が発売中止になった経緯は以下のようだ。

1968年2月19日、東芝音楽工業に対し朝鮮総連は、これが「『朝鮮民主主義人民共和国』の歌であること」と「作詞作曲者名を明記すること」を求めた。レコード会社は国交のない北朝鮮の正式名を出すことを躊躇し、結果発売自粛となったようである。
(出典:ウィキペディア)


フォークル解散後、北山修は「あの素晴らしい愛をもう一度」「戦争を知らない子供たち」「さらば恋人」など数々の大ヒット曲の作詞を手掛け、はしだのりひこはシューベルツやクライマックスといった新グループを結成して「風」「花嫁」などの大ヒットを飛ばした。

そして加藤和彦は、初期の吉田拓郎や泉谷しげるをプロデュースして世に送り出し、その後サディスティック・ミカ・バンドを結成するなど、まさに日本のフォーク&ロックの大立役者となった。


加藤和彦は2009年に軽井沢のホテルで首を吊って死んだ。62歳だった。
彼の遺書は、次のように書かれていたという。

「これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか? 死にたいというより、生きていたくない、消えたい」

わたしにはその真意はわかりかねるが、日本の音楽シーンにフォーク&ロックを確立させた偉大な立役者の最後としてはあまりにも悲しく、やりきれない思いを強く感じる言葉と言わざるを得ない。