破格の天才・吉田拓郎

ah-面白かった

吉田拓郎が今年限りで芸能活動を引退することを発表した。

まあ、これまでも何度か引退を匂わす発言をしてはその度に覆してきた、やんちゃで気ままな彼のことなので100%信じてはいけないのかもしれないが、しかし彼ももう76歳。早すぎる引退というわけでもないし、どうやら本気のようだ。

正直、過日放送された『LOVE LOVEあいしてる最終回・吉田拓郎卒業SP』でのパフォーマンスを見ても、彼が引退の理由として挙げた「もう昔のようには歌えなくなった」という言葉も納得できる瞬間が散見できた。そりゃそうだ、76歳と言えば後期高齢者なのだ。無理して若いときと同じことをやり続ける必要もない。もう充分だろう。

吉田拓郎ライブ コンサート・イン・つま恋'75

吉田拓郎はカリスマだった。
1970年代の多くの若者たちにとって。そして、そんな若者たちより一回り以上年下のわたしにとっても。

わたしが吉田拓郎をはじめて聴いたのは1980年だ。悔しいけれども、70年代の彼の八面六臂の大活躍とお祭り騒ぎはまるまる知らない。それでもわたしにとっても、彼はカリスマになった。それはもう、一瞬で。一撃で。

そのときわたしは、中学二年生だった。
わたしは歌謡曲を毎日熱心に聴いていて、TBSの『ザ・ベストテン』や、ラジオの歌謡チャート番組の順位をノートに毎週書き記したりしていた。

さらに中二の半ばにもなると、ラジオ好きが嵩じて深夜放送『オールナイトニッポン』を毎晩聴くようになり、当時金曜日のパーソナリティを担当していた吉田拓郎に出会った。

番組で流れる彼の曲を聴いて興味を持ち、吉田拓郎のベスト集的なカセット(わたしの家にはレコードプレーヤーが無かったのだ)を買って聴いてみたことで、すべてが変わってしまった。

カセットに収録されていた「春だったね’73」の、そのメロディからはみ出しまくる字余りの歌詞をものすごい勢いでビートに乗せ、ぐんぐんと盛り上げて歌う爽快なカッコ良さに打ちのめされたのが始まりだった。あんな風に歌う人を中二のわたしは他に知らなかった。

それまでわたしが知っていた日本の歌謡曲とは全然違う、音楽の枠やルールをまるっきり無視したような、自由で破天荒でエネルギッシュなそのヴォーカルに稲妻に打たれるような衝撃を受けた。思いっきり熱くて、痺れるほどトガっていて、深い感動に魂を揺さぶられる、数々の名曲に魅了されていった。こんな音楽があるのか、と大興奮したものだ。

そして吉田拓郎が一瞬にしてわたしのカリスマになってしまうと、それまで聴いていた歌謡曲が急につまらない、子供っぽいものに思えてしまい(自分も子供なのだが、背伸びしたい年ごろなのだ)、チャート番組をチェックするのもやめてしまった。

彼の音楽には「リアリティ」があった。そして吉田拓郎には、他の誰からも感じたことのなかった「自由」という燦然と輝くオーラを感じた。ああなりたい、とわたしも思った。まさに、これぞ中二病、という感じである。

中学を卒業して働き始めるとわたしは早速ローンを組んでオーディオセットを手に入れ、吉田拓郎のレコードを少しずつ買い集めていった。たぶん2年ぐらいは吉田拓郎しか聴いていなかったんじゃないかと思う。

その後はさらに、拓郎が影響を受けたということで興味を持ち、わたしはボブ・ディランを聴き、ビートルズを聴く。そこからわたしはロックという深い森へと足を踏み入れていったのだが、その入口へと案内してくれたのが吉田拓郎だったというわけだ。

本名を平仮名にしただけの芸名で、よしだたくろうは1970年にデビューした。

歌謡曲を主流としていた日本の音楽シーンにとっては、オルタナティヴ・ミュージックとも言えるフォーク・ソングのブームが学生たちを中心に広がったのが60年代後半で、拓郎が登場する以前には岡林信康などを中心とした「反戦・反体制フォーク」が、当時は世界的な流行でもあった学生運動と共鳴して、若者の間で支持されていた。

しかし拓郎は彼らとは一線を画し、反戦も反体制も歌わなかった。逆に、

これこそはと信じれるものが この世にあるだろうか
信じるものがあったとしても 信じないそぶり
(「イメージの詩」作詞・作曲:吉田拓郎)

と歌い、反ナントカやナントカ主義で革命を起こせば理想の新世界が来ると信じて闘争に明け暮れた若者たちや、それを煽るフォーク・シンガーたちとは真逆の立場に立ったのだ。

なにも信じない代わりに吉田拓郎は、

私は今日まで生きてみました
私は今日まで生きてみました
そしていま私は思っています
明日からもこうして生きていくだろうと
(「今日までそして明日から」作詞・作曲:吉田拓郎)

よしだたくろう 青春の詩(紙ジャケット仕様)

喫茶店に彼女と二人で入って コーヒーを注文すること
ああ それが青春

(「青春の詩」作詞・作曲:吉田拓郎)

などとささやかな日常や、あたりまえの現実を肯定的に歌うリアリストとして、反体制や革命などに興味のない、現実を逞しくしなやかに生きるサイレント・マジョリティーの若者たちの共感を得たのだった。

そして1972年の1月にリリースされたシングル「結婚しようよ」が大ヒットする。

これによって「フォーク」の時代は終わり、「ニュー・ミュージック」の時代が始まったと言えるだろう。どう聴いても吉田拓郎の音楽はそれまでのフォークとは違うのだ。
洋楽みたいにポップだし、アングラ臭がなく、メジャー感が強い。初期のアルバムを聴けば、彼は弾き語りのスタイルをときに有効利用しながらも、しかし最終的にはロックやポップスをやろうとしているのがよくわかる。

吉田拓郎の最大の魅力はそのヴォーカルスタイルと楽曲にあることは間違いない。
ビブラートなど一切しない、素人のような歌い方なのに、あの甘さと苦さが両立した奇跡のように魅力的な声と、メロディも小節も無視したような自由なスタイルと天性のリズム感、そして魂の叫びのようなシャウト。

あんなふうに歌えたらどんなに気持ちがいいだろうと思わせるようなそのスタイルは、多くのファンにギターを手に取らせた。彼のスタイルには「なんとなく自分にもできそう」という抗い難い魔力があったのだ。そんなわけないのに。もちろん、わたしもその魔力に囚われたイタい若者のひとりだった。

GOLDEN☆BEST/よしだたくろう ひきがたり

また、当時の歌謡界で飛ぶ鳥を落とす勢いだった天才作曲家、筒美京平が「吉田拓郎が出てきたときに、初めてヤバいと思った」と語っているほど、吉田拓郎の作曲能力はズバ抜けていた。

広島での大学時代にはロックバンドでサイドギターを担当し、ビートルズを筆頭とする当時のブリティッシュ・ビートやR&Bを演奏していたそうだが、それらが吉田拓郎の音楽の下地になっているのはその作風からもよくわかる。さらにボブ・ディランにも大きな影響を受け、そしてもちろん、日本の歌謡曲の影響も感じられる。

フックがあって印象に残るポップなメロディーながら、ごく自然に日本語が乗っているそのスタイルは、和洋の混交のみならず、ロックとフォークと歌謡曲というジャンルの混交も併せて生まれた、まったく新しい日本の音楽となった。

70年代に吉田拓郎がカリスマになった理由はたくさんあるだろう。

ルックスも、女性からも男性からも好かれそうな絶妙なカッコ良さだったし、ステージでのしゃべりがウケてラジオのDJとしても活躍したり、レコード録音ではプロデューサーを兼任したり、日本で初めてライブツアーを行ったり、6万人を集めて野外オールナイトコンサートを初めて開催したり、提供した歌謡曲がレコード大賞を獲得したり、井上陽水や泉谷しげるらとレコード会社を立ち上げたりと、新たな扉を次々と開いていったのも彼のカリスマ性をさらに輝かせることになった。彼は学生運動の「革命」には興味を示さなかったが、日本の歌謡界には次々に革命を起こしていったのだ。

しかしなんといっても「音楽」だ。彼の唯一無比の声と歌唱、そしてソングライティングの才能は、それだけで世界の超一流のアーティストたちと余裕で肩を並べるものだ。
独創的で豊かなメロディーや深い感動を与える名曲をこれだけ大量に書いたアーティストをわたしはほとんど知らない。吉田拓郎は、破格の天才なのだ。

ah-面白かった

デビューから52年、わたしのカリスマになってからでも42年、長きにわたって活躍してきた吉田拓郎も、今年で芸能活動を引退する。

最後のアルバムは『ah-面白かった』というタイトルだ。

拓郎らしく、潔く、清々しく、そして茶目っ気たっぷりに最後を飾るタイトルだ。わたしも仕事を引退するときに、あるいは死ぬ間際に、そんな風に思えるような人生を送りたい。

52年間にわたって、彼は数多くの名曲でわれわれを楽しませ、感動させてくれた。それは吉田拓郎が引退してもなお引き続き、いつでもわれわれを楽しませ、感動させてくれるものだ。

日本の音楽界に多大な影響を与え、豊かなものにしてくれたこと、そしてわたしを生涯にわたって音楽好きにしてくれたこと、わたしの人生に大いなる意味と光を与えてくれたことに対して、心からの敬意と感謝の拍手を送りたい。

(goro)

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